vol.003 ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集 ~神様編~

前書き

こないだの水曜日に歯の定期健診に行ってきました。

金持ちは一般の人よりも歯を大切にするって聞いたので、僕も金持ちを真似して大切にしようかなーと思った・・・のではなく、

あたりめを食べたら右上の奥歯に挟まってすっごく痛くなっちゃってね(笑)、仕方なく行ったのが今年の1月でした。

その後、担当の先生の予約が取れなくて、ようやく本日、2回目の定期健診。前回に教わった歯の磨き方を忠実に守って磨いていたらすっごく口内環境が良くなってました。歯を磨くなんて毎日の小さなことだけど、小さいことも続けるとちゃんと成果が出るんだなぁとしみじみ感じました。

それにしても、大人になってエプロンされて、口の中をカメラで撮られるって・・・何かのプレイみたいよね(笑)

本題

さて、前回と同じ本からの学びを共有させてもらいます。

今回は神様編です。

ユダヤの神様は、僕たちが考える神様のイメージとちょっと違うのですよ。

他の宗教は、神様に健康長寿を願うが、ユダヤ教は神が人間の健康のための戒律を実践させる。

そして「それをするもしないもお前次第だ」と、突き放す。

つまり暴飲暴食で死にたきゃ勝手にしろということで。決めるのは人間のほうだと。

ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集 P172

神様の力によって人間を健康にするのではなく、こうしたほうがいいよってアドバイスはするけれど、それに従うかどうかは人間任せで勝手にしろって言ってくるんだって。

神様を信じれば救われる・・・的なものではないところに、現実主義のユダヤ人らしさってものを感じました。

追放や虐殺を経験した民族なだけに、神様に祈るだけで救われるなどとは思っていなくて、自らの命を守りたいならば自らがの手で守ると、とそういう思いが強いのかもしれない。

僕はこういう考え方、好きですねー。

「好き」といえば、次の文章の考え方も僕は好きです。好きと言うか、大切だなって思うのです。

あ、神様とは関係のない話ですが。

ユダヤ人は日本とは全く逆のことを教訓にした。

「衣食足りると礼節を忘れる」と。

贅沢をして苦しかった時期のことを忘れると、人としての自覚を忘れてしまう。

だからユダヤ人はエジプトの奴隷時代の苦しさを忘れないために、年に何度も断食をしたり、過越祭ではわざと貧しいイースト抜きのパンを食べたり、スコットという祭りのときに屋根のないボロ小屋で何日も過ごすということをする。

ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集 P173

僕たちは、例えば洗濯機に感謝することって少ないと思うのね。

それは、洗濯機のある生活しかしていないからだと思うのです。洗濯機のある生活が当たり前なので、無いとどれだけ苦労するかを知らない。あるのが当たり前だから特別さを感じず、感謝をしない、と。

だから、そういう意味ではどれだけ今が恵まれているのか、どれだけ自分たちの先祖が苦しい思いをしたのか、そういうのを強制的に思い出させてくれる断食などは大切なことだなって思うのです。

また、これらは感謝を思い起こさせてくれるだけではなく、今後、もし辛い目に遭ったとしてもそれに耐えられる力を身に付けさせてくれるように思うのです。

今まで毎日、朝昼晩と三回食事をしていた人が、何かのハプニングにより一日中空腹で過ごさなければならないとしたら、その苦しみは大変なものになると思います。

一方、日頃から断食を経験している人にとっては、そりゃ苦しいことは苦しいけれど、多少なりとも空腹に耐えられる免疫があると思うんだ。

そういう意味でも、断食とかボロ小屋で過ごすというのは価値がある気がする。

いや、決してそういう経験を積極的にしたいと言うわけじゃないんだけどね、でも大切だなぁとしみじみ感じるわけです。

そして最後。これも面白い考え方だったよ。

こうした「不幸の偏在性」(良い人に不幸が起こるのに、悪い人には不幸が起こらない)には、誰もが悩み、困惑し、宗教もこの問題に向き合ってきた。

仏教では善人を不幸が襲うのは前世の罪によるものだと考え「因果応報」だという。

カトリックはもともと人間は罪深い存在で「原罪」を背負って生まれてくるという。

ではユダヤ教ではどう考えるのか。

〇〇〇〇〇、と考えるのである。

ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集 P176

さて、ヨシ君。「〇〇〇〇〇」に入る言葉は何だと思う?正解は・・・

ではユダヤ教ではどう考えるのか。

神のすることはわからない、と考えるのである。

すごくない!?

そして、こう続きます。

人間の不幸や不運が偏在する理由は「わからない」、あるいは「正しい人には神が試練を与えることがある」とか、もっと悪い事態を防いでくれているのが今の不幸な事態だと前向きに発想する。

不運や災難はどうしても起こり得るものだから、避けるという発想ではなく叡智を尽くして乗り越えていこう、と考える。

「なぜ自分だけがこんな目に・・・」とは考えず、それも自分の人生の一部と考えて受け入れ、前向きに切り抜ける努力をするのである。

ユダヤ人の成功哲学「タルムード」金言集 P176

いやー、やっぱり現実主義だね、ユダヤ人って。起こったことにクヨクヨしたり、何で起こったんだ!って考えても答えは出ないし、仮に答えが出てスッキリしたとしても、それでは人生は何も良くならない。

だったら、自分の出来る行動を取ったり、プラスの捉え方をして人生を良くしていこうと、現実を生き抜くための考え方をするんだなーって。

ユダヤ人の、現実に即した、現実に対応した考え方や捉え方をしっかり僕たちも取り入れていきたいものです。

まとめ

ここまで、ユダヤ人がいかに現実的な考え方をするかについて一緒に学んできたわけですが、

でもさ、現実主義だったら、目に見えないし、特に何かをしてくれるわけでもない、そんな神様の存在を信じなくてもいいと思わない?それなのに、ユダヤ教という宗教が存在して大切にしているところが面白い。

もしかしら彼らにとっては、神様が本当に存在するかどうかはどうでもよくて、ただ、神様が存在すると考えた方が自分たちにとって都合がよく、自分たちが生き抜くために必要なものだと考えているのかもしれないね。

僕は、彼らの現実的な物事の捉え方に非常に強く賛成するんだけど、

彼らが現実的に物事を捉えるっていうのは「生に執着している」と言うことも出来ると思うんだ。

戦国時代とか江戸時代の日本人には、生に対する執着が低い・・・わけじゃないんだろうけど、いざとなったら死ぬことも辞さないという覚悟があったように思うのね。ここだけは日本人とユダヤ人で違うんじゃないかなーと感じました。

これはどっちがいいって話ではなく、「何があっても生き延びる」という覚悟(ユダヤ人)か、「いざという時には自らの命すら辞さない」という覚悟(昔の日本人)と、覚悟の向かう先が違うってことなんだろな。

歴史は生き残った人が作り出すものだから、滅びたら終わりだって考え方も分かる。

同時に、自分に恥じない生き方をすれば死んだって構わないっていう気持ちも分かる。

日本に有事が起こった際、果たして僕はどっちの覚悟を持って臨むのだろうか・・・。

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