vol.004 「ないものねだり」のススメ

前書き

最近、空手の練習をする機会が増えてきました。
8月25日~9月24日までの一か月で形を合計157回打ちました。
力を入れてやったわけではないんだけれども、僕としては驚異的な数です(笑)
その分、ヨシへの手紙を書く時間が減ってます。。。
読みたい本も沢山あるし、仕事もあるし、やりたいこともあるし、いやー、時間が足りないって思っちゃう今日この頃です。
幸せな悩みよね。

さて、今回は僕にとって大きな気付きだったことを共有しますね。
やっぱり小林 正観さんは気付きの宝庫だなぁと改めて思います。

本題

知的障害を持って生まれてきた子どもがいる、とします。

おそらく僕たちの多くは、自分の子どもが障害を持って生まれてきた時にはネガティブな感情を抱くのではないかと思います。

母親の中には「私のせいでこんな障害を持つ子が生まれてしまった」と後悔をする人がいると聞いた事もあります。
母親が悪いわけではないんだけど、とはいえ、そう簡単に割り切れない気持ち、自分を責める気持ちもよく分かります。

ただし、ヨシや僕は、今までに色々と学んできた中で「ないものには目を向けない。あるものに目を向ける」方が生きやすくなるということを知っています。

なので、もし僕たちの子どもが障害を抱えていた場合、例えば、

  • その子が生まれてきてくれたことで初めて知ること、経験できることがある。
  • 当たり前が当たり前でないことを知った。
  • 世間の厳しさや優しさを知れた。
  • この子の将来のためにお金を貯めるため、お金に詳しくなった。

などなど、この子のおかげで得ることが出来たことに目を向けようとするだろう、そのように思うわけです。

「ないものに目を向け」ても仕方ないし、いいことがない。
だから、僕の中では「ないものに目を向ける」のは良いことではないと思っていたのですが、小林 正観さんから「ないものに目を向ける」ことの素晴らしさを学んだので共有させてもらいます。

小林 正観さんの長女のケイコちゃんは、知的障害を持って生まれてきました。
正観さんはこのケイコちゃんについてこんなことをおっしゃっていました。

ケイコちゃんが障害を持って生まれてきてくれたおかげで、私達には悪いことが起こらない。

つまり、本来は正観さん家族に起こるはずだった多くの災いを、ケイコちゃんが一身に請け負ってくれたんじゃないか、と。

僕たちや僕たちの周りには、理不尽と思えるようなことが残念ながら存在します。

最近で言うならば、例えばロシアによるウクライナ侵攻ではないでしょうか。

それによってウクライナにもロシアにも大きな被害が出ていますが、正直、日本人にとっては対岸の家事で、要は他人事として捉えてしまっています。僕もです。

でも、実はウクライナが侵攻されていなかったら日本が攻められていたかもしれず、ウクライナは日本の肩代わりをしてくれただけなのかもしれません。

あ、別にウクライナじゃなければ日本が必ず攻められていた、という意味ではなくて、例えばバルト三国など、ウクライナが侵攻されていなかった場合に、どこか他国が攻められていた可能性があるっていう意味です。

そう考えると、誰かが請け負ってくれたことで、他の人は経験せずに済んでいることがこの世にはあるのではないかと思うのです。

何をしても上手く行かないし、病気や火事など多くの不幸を経験する家族があるとします。

周りの人達は「あの家族は可哀想だね」「ああはなりたくないね」とか好き勝手なことを言うかもしれませんが、実はその家族が不幸な目に遭ってくれているからこそ、自分たちには大きな災いが起こらないのかもしれないのです。

僕たちのこの世界には、目に見えない法則というか確率というか、そういうものがあるように思います。

例えば今回のロシアによるウクライナ侵攻で、男性が多く亡くなったとします。

僕たちが子どもを授かる際、その(身体的な)性別は「男性」「女性」のいずれかであり、おそらく50%の確率でどちらかが生まれてくるのだと思います。

そうすると、今後ウクライナでは常にある一定の割合で女性が多くなるはずなのに、何故か十年とか二十年とか経つと、侵攻を受ける前の男女比になっていると思うのです。

もしこのように、侵攻前後で男女比が変わらないとしたら、神様が男性を多く生まれるようにコントロールしていると言えるよな気がします。
つまり、男女比というバランスが崩れた際に、元に戻そうとする力がこの世には働く、と。

そう考えてみると、世の中には一定の確率というものが存在していて、前述したような知的障害を持って生まれるというのも、その一定の確率で必ず発生してしまうのではないかと思うのです。

なので、もし自分の子どもが障害を持って生まれてきてくれたならば、その少ない確率を引いてきたわけで非常にレアな、有り難い存在であるし、その子が障害を持ったことで他の子が障害を持たないで生まれてきたので、周りの子を救っていることになります。

正観さんがおっしゃるように、家族の身に起こるであろう災いを防いでくれているのかもしれません。

逆に、自分の子が健常者として生まれてきてくれた場合には、それは他の家庭で障害を持って生まれてきてくれた子のおかげかもしれないのです。

障害を持って生まれてきた子がいる場合、それを「原罪」「カルマ」だとおっしゃる方もいるでしょうし、そういう捉え方も出来るとは思います。
ただし、そうではなく「ヒーロー」(ヒロイン)という捉え方も出来るとも思うのです。

ちなみに「原罪」「カルマ」と捉えることは悪いわけではない、と僕は思っています。
そう捉えることで「今後の生き方はなるべく良い言葉遣いをしよう、良い考え方をしよう、周りの人を喜ばせる生き方をしよう」と思い、行動を取るならば人生は豊かになりますし、そういうプラスになる捉え方が出来るならば「原罪」「カルマ」と捉えても何ら問題はないでしょう。。

ただし、おそらく多くの場合、「原罪」「カルマ」と捉えるのは人生をプラスにする考え方に繋がらないだろうから、だったら「ヒーロー」として他の人を守って生まれてきたと思う方がプラスになるのではないかと、そう思うのです。

さて、話をこのブログの最初の話に戻します。

「ないもの」に目を向けることはあまり良くないから「あるもの」に目を向けようということを書きました。

でも、そもそも何故「ないもの」に目を向けることがあまり良くないのでしょう。
それは、僕たちが「ないもの」に目を向けてしまう場合、比較をしていることが多いからなのです。

例えば「子どもの成長」を比較して、自分の子どもの成長が遅いと不安になります。

「旦那同士」を比較して、隣りの旦那は家事を手伝ってくれるのに、自分の旦那は家事を手伝ってくれない」と不満を抱えたりします。

このような、比較による「ないもの」に目を向けると、そこには不満が見つかってしまうに思うのです。

比較ではなく、この世に起こっていない「ないもの」に目を向けると、
そこには感謝(ありがとう)と尊敬(スゴイ)が見つかるのではないでしょうか。

追伸

正観さんがガンになった時、同じタイミングで奥さんもガンになったそうです。

これに対して正観さんはおっしゃってました。

奥さんが私のガンを少し請け負ってくれたから、私は生きていられるのかもしれません。

と。正観さん一人に全部の量のガンが襲い掛かってきたら命が亡くなっていたところ、奥さんが何割かを引き取ってくれたんじゃないかって。

こういう考え方が普通に出来るようになると、もっと色々なことに感謝できるようになるんだろうね。

妄想力を鍛えていきましょう!

コメント

タイトルとURLをコピーしました