前書き
「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」からの学びを共有します。
今日は数話、気になったものを紹介するね。
本文
砂時計の詩
一トンの砂が、時を刻む砂時計があるそうです。
その砂が、音もなく巨大な容器に積もっていくさまを見ていると、
時は過ぎ去るものではなく
心のうちに からだのうちに積りゆくもの
と、いうことを、実感させられるそうです。
時は過ぎ去るものではなく
心のうちに からだのうちに積りゆくもの
1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 P295
ヨシも僕も「今が大事」「今を本気で生きる」っていうことを知っていて実践しようと努力していると思うんだけど、この考え方って「過去は、既に過ぎ去ったものだから」っていうのがどこかにあるように思うのね。
時間は過ぎ去るものではなく積もっていくものであり、それが今の自分を作ってくれてるんだと、何かそう思うと過去も大切に思えるような気がするのでした。
さて、次。
平昌(ピョンチャン)オリンピックのスピードスケートで金メダルを獲得した小平奈緒さんの講演会を聴きにいったのですが、彼女がこんなことを言っていたのです。
自分はコーチによく覚悟を決めろと言われてきたけど、覚悟は外から言われて決めるものじゃない、覚悟は自分自身で持つものなんですと。
1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 P305
言われてみれば当たり前なことなんだけど、ついつい指導者側になってしまうと「覚悟を決めろ!」って言っちゃうよね(笑)
「覚悟を持とう」くらいなことは言ってもいいと思うんだけど「覚悟を持て!」「覚悟しろ!」と命令になったら、それは覚悟じゃなくてただの義務だもんね。気を付けないとです。
覚悟だけじゃなく、何事も本人自らの意思を持って決めることがやっぱり大切だよね。
命令する方が何倍も楽なんだけど、そこはグッと我慢して、本人自らが覚悟できるように働きかけたいものです。
さて、次。
阪神・淡路大震災に遭うまでは、どんな状況でも不撓不屈(ふとうふくつ)で頑張ることのできる人が勇者だと思っていました。でも、真の勇者は頑張れることへ感謝できる人なんですね。
1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 P136
プロゴルファーの古市 忠夫さんの学びでした。
彼にとって非常に大きな学びだったんだろうなと思うのと同時に、この学びを得るために大震災が必要だったと思うと悲しさも感じてしまいます。大きな犠牲が沢山出たわけだからさ。
震災によって大切な人を亡くしたり、家や職を失ったり、そういう諸行無常な状況を目の当たりにして、それでも生きていく人の中に、きっと強さを見たんだろうね。
日本は災害が多い国で、それによって失っているものは非常に多い。
出来うることならばそういう災害が起こらなければ良いと思う反面、もし災害が起こらなければ、自然に対する感謝を忘れ、今よりも美しくない国民になっているような気もするのです。
ユダヤ人たちが、過去の辛い時期を忘れないために断食をするように、僕たちも、こうして過ごせている日常が決して当たり前のものではないということを忘れてはいけない・・・と思うことすら忘れちゃうんだよね。
忘れてしまうのは仕方ないんだけど、感謝は意識的に行うことができるよね。
僕たちは何の変哲もないことに感謝をしていきたいものです。
さて、最後です。
これは時折、講演で話すんですが、「泥棒と悪口を言うのと、どちらが悪いか」。
私の教会の牧師は「悪口のほうが罪が深い」と言われました。大事にしていたものや高価なものをとられても、生活を根底から覆されるようない被害でない限り、いつかは忘れます。少しは傷つくかもしれませんが、泥棒に入られたために自殺した話はあまり聞かない。
だけど、人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時折、聞きます。
1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書 P110
以前のJUGEMブログの中で「煙草で縮める寿命より、テレビを無駄に見て失う寿命の方が長い」という言葉を引用させてもらいました。
これはこれでなかなか僕的には衝撃的な内容だったんだけど、泥棒よりも悪口の方が罪が重いというのもなかなか衝撃的な話だと思いました。
というのも、泥棒は簡単には出来ないけれども悪口は誰でも簡単に言えてしまうから。
そんな簡単に出来るものの方が罪が重いとは考えなかった。
そして、彼女は続けてこう言います。
私たちはいとも楽しげに人の悪口を言い、また聞いています。そしてああ今日は楽しかった、と帰っていく。人の悪口が楽しい。これが人間の悲しい性(さが)です。
もし自分が悪口を言われたら夜も眠れないくらい、怒ったり、くやしがったり、泣いたりする。自分の陰口をきいた人を憎み、顔を合わせても口もきかなくなるのではないでしょうか。
まさしくその通り。自分がされてイヤなことなのに、他人にはしてしまう・・・。
だけど、僕たちは自分を罪人だとは思っていないし、罪深いなどと考えたりしないわけです。
宗教によっては、僕たちは罪を背負って生まれてきたという考えを採用しているけれど、確かにこう考えてみると僕たちは気付いていないだけで罪人なのかもしれないなって感じてしまうものです。
でね、何でこんなことが起こるのかについても書いてくれています。
私たちは常に、二つの尺度を持っているからです。
「人のすることは大変悪い」「自分のすることはそう悪くない」(中略)
ある人の隣家の妻が生命保険のセールスマンと浮気をした。彼女は「いやらしい。さかりのついた猫みたい」と眉をひそめ、その隣家の夫に同情した。
何年か後に彼女もまた他の男と通じてしまった。だが彼女は言った。
「私、生まれて初めて、素晴らしい恋愛をしたの。恋愛って美しいものねぇ」
私たちはこの人を笑うことはできません。
私たちは自分の罪が分からないということでは、この人と全く同じだと思います。
僕、ある時からなるべく人を責めるのを止めたのね。
というのも、その人に注意したことと同じミスを、僕もその後にすることが多かったからです。
それに気付いてから、他人のことをああだこうだと言う資格はない、と思うようになったのです。
だから、この女性の例も決して笑えない。
人間ってやっぱり自分には甘く、他人には厳しく出来てるんだなって感じる。
ひとりさんが「自分には甘く、他人にはもっと甘く」っておっしゃってたけど、
ひとりさんは、このような人間の持つ悲しい性を知っているんだろうね。
こうした性は生まれつき持ってきたものだから変えるのは非常に難しいと思うわけだけど、
要は「自分と他人は別」という考えを、いかに
「この世のものは全て自分と同一」に変えられるかがポイントだと思うわけです。
自分を大切にするという特徴を活かして、「自分」という解釈をどこまで広くできるか、それが僕たちの課題なんだろなと思います。
また、ヨシも僕も空手という「強い力」を持っているわけですが、そういう特別なものではなく、誰もが持っている言葉の方が「強い力」だということを覚えておかないといけないね。
誰もが簡単に発することが出来るものが「最強であり最恐にも最凶」にもなり得るし、でも、使い方によっては人生を好転させる「最強にて最高」のモノにもなり得る。
僕たちは自分の発する言葉をどこまでコントロールできるか、これもまた一つの大きな課題だなと改めて認識させてもらえたのでした。
編集後記
こうやって考えてみると、イエスが「初めに言葉ありき」っておっしゃったのも何だか分かるような気がする。
日本の新幹線には「こだま」(言霊)という名前があり、
それよりも速いのが「ひかり」(光)であり、
更にそれよりも速いのが「のぞみ」(望み)だよね。
確かに、僕たちが言葉を発するというのは急に発するのではなく、
最初に思考(のぞみ)が働き、それから言葉(こだま)になるわけだけど、
イエスは「初めに思考ありき」とは言わずに「言葉」ありきっておっしゃったと考えると、
僕たちがアレコレと悪い考えをするのは自由だ、と言えるのかもしれない。
要は、発しない限りは効力はないけれど、言葉として発した際には効力が発動する、と、
そういう捉え方も出来るのかなってね。
それに、思考を変えようとするのも難しいと思うんだけど、言葉は変えられる。
そして、言葉が変わるとその内に思考も変わっていく、そういうこともご存じだったのかなーと思ったりします。
小林正観さんが「ありがとう」を沢山言うといいよとおっしゃっていたのも、言葉を変えるとそれが気付いたら思考を変えて、思考が変わると発する言葉もプラスのものに変わるって分かっていたからなんだろな。
ひとりさんにしても正観さんにしても、僕たち凡人でも出来る考え方や行動を教えてくれる、本当にスゴイ人です。
「努力して頑張って何かを成し遂げる」こともスゴイことだけど、
彼らはそういう「努力をしていないのに何かを成し遂げちゃう」方法を教えてくれるわけです。
でも、勘違いしちゃいけないのは「ラクして成し遂げちゃう」わけではないということね。
というか、努力してないからそういう意味ではラクなんだけど「行動していない」という意味ではないんだ。
自分の心を奮い立たせて、やりたくないことを頑張るということはないものの、成し遂げるための行動はしているけれども、やらされ感を感じずに行動しているから努力したという気にはならない、と、そういうことなんだと思うのね。
そう考えるとやっぱり「行動」なんだよな。
今回のブログをまとめるとすると「言葉」に気を付けて「行動」する。これに限る、ということですね。
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